研究者インタビュー木下祝郎

研究者インタビュー

世界初、発酵法でのアミノ酸大量生産に成功したのは私たちです。

木下祝郎

木下 祝郎(故人)

協和発酵工業株式会社(現:協和発酵バイオ株式会社)

1915年京都生まれ。東京大学農学部卒。
協和発酵東京研究所所長、代表取締役社長、会長を経て特別顧問。日本学士院長賞受賞。

アミノ酸大量生産へとつながるペニシリン、ストレプトマイシンへの挑戦。

私が協和発酵に入社したのは終戦の翌年、昭和21年です。
当時わが社は触媒の研究はしているが、発酵は全然やっていない。私は手持ちぶさたでしょ。見かねた社長が「君に3つのテーマを与えよう」とおっしゃられた。「聞くところによると外国には青カビからつくるペニシリンという妙薬があるらしい。まずその研究をやれ」と。
当時、日本には発疹チフスなどの病気が蔓延していたんですね。そこでアメリカから来日された第一人者のフォスター博士の講義を聞き、ペニシリンの菌株を分けてもらい、私どもが真っ先にタンク培養に成功したわけです。

二番目のテーマはストレプトマイシン。結核は亡国病とさえいわれた時代です。
日本でも研究に着手されてはいましたが、工業生産となると問題が山積みでね。私どもは規模は小さいけれどパイロットプラント三基を持っていましたから、ペニシリン同様、ストレプトマイシンの研究にもすんなりと入れたわけです。
ところが事業として成り立つまでの大量生産ができない。そこでアメリカのメルク社から技術導入することになりました。昭和26年、私たちは初めてアメリカへ行くことになって。

当時、羽田はアメリカ軍用基地ですし、怖くてしようがない。飛行機に乗るとスチュワーデスという人がいるんです。その女性が一体何者なのか、どういう役目かも知りません。彼女が通路を歩いてきて、我々に何やら聞くわけです。
英語はさっぱりわかりませんし、視線を合わせちゃいけないから、パスポートで顔を隠していました。いま思えば「水はいらないか? コーヒーは?」と聞いていたと思うんですけど。

ストレプトマイシンの生産には社運がかかっていましたから、失敗は許されない。私たちも必死で努力しまして、比較的短期間で製品を販売できるようになり、日本の結核患者もみるみる減りました。

微生物にアミノ酸を生産させる独自の技術に世界中が驚きました。

ペニシリン、ストレプトマイシンの生産が軌道に乗り、三番目のテーマにチャレンジする時がきました。社長から「日本人の体格は貧弱だ。タンパク質が欠乏しているのが一因と思われるから、タンパク質の大量生産をやりたまえ」といわれていました。しかし、タンパク質をたくさんつくったとしても採算はとれそうにないし、いっそタンパク質の構成成分であるアミノ酸を大量につくってみようじゃないか。が、タンパク質を分解してアミノ酸をつくったのでは、タンパク質の絶対量が増えたことにはならない。アミノ酸以外のものからアミノ酸をつくらなくては面白くない。

それまでアミノ酸を微生物で大量生産した例はありません。第一、微生物でアミノ酸ができるのかさえ疑問視されていたくらいだから。確かに微生物はタンパク質をつくりますが、自らタンパク質を壊しアミノ酸として体外に出すということは、微生物にとっては自殺行為。まさか微生物がそのようなことをするはずがなかろうというのが、当時の学問の定説でした。しかし、世の中には変わり者、ひねくれ者の微生物がおりましてね。グルタミン酸をどんどんつくるやつがおるんです。短期間のうちに試験管内での実験は成功しましたが、大量生産に移すには品質管理が欠かせません。

昭和32年、数々の関門を突破してやっと工業化に成功しました。発酵法によるアミノ酸の大量生産を、真っ先に評価してくれたのはアメリカのメルク社です。「すぐに技術導入させてほしい」と研究者が飛んできましたよ。この成功に力を得て、タンパク質を構成しているアミノ酸を片っ端からつくろうじゃないかというわけで、次々にアミノ酸をつくりました。

半世紀で培われた信頼の技術で今後も時代が必要とするアミノ酸をつくる。

日本人にタンパク質が足りず体格が貧弱だという時代は終わりました。でも、いくら栄養は豊富でも完全なアミノ酸バランスを保っている人はいないんじゃないかな。きっと何かが欠けている。だから「この人にはリジンがいる」「あの人にはオルニチンがいる」というような研究が必要だと思いますよ。老人の介護食とか、スポーツドリンクとか、女性の美容食とかね。
それはとても難しい研究になるでしょうが、協和発酵ならきっとそういう解明も進めてくれるんじゃないかと私も期待していますよ。これからはその人に必要なアミノ酸を摂る時代になるんじゃないかな。

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